問題の「追放」は、1965(昭和40)年に起きた。3月31日付けで山田は東宮侍従長を退き、書陵部長に異動した。「侍従長」は「部長」と同格であるため、左遷ではない。しかし当時、東園基文(東宮侍従、1911-2007)は、「転任原因は美智子妃に対する山田の諫言にあった」と橋本明(共同通信記者、1933-2017)に語っていたことが明らかになった。
東園基文 山田さんの諫言の元になったのは、正田富美子さんから東宮御所に手紙が来るたびに美智子妃がご返事を克明に書き送っておられた事実だ。
正田家といえども百年先にはどうなっているかわからない。東宮妃の立場でめったに返事をするものではない、山田さんは美智子妃にこう諫言した。明仁親王がご幼少のころ、貞明皇后に詳しい手紙を書いて出されたことがある。侍てど暮らせど返事がいただけない。お伺いを立ててみると、皇太后は孫とはいえ滅多に手紙を書くものではないとのことだった。
あれは例外的なものだった。従って山田さんの諫言は正しかったと思う。しかし結果は×(バツ)と出てしまった。山田さんは書陵部長に左遷された。(橋本明『美智子さまの恋文』新潮社、2007)
美智子さまが正田家とたびたび手紙のやりとり…。たったそれだけが嵐を呼び起こした。我々一般庶民の家なら問題にならないことでも、皇室ではそうはいかない。現在でも紀子さまと川嶋家の濃厚な繋がりが度々週刊誌を賑わす。思い起こせば、雅子さまが実家の関係も週刊誌で取り上げられ、バッシングの対象になった。
だが美智子さまと実家の結びつきは、週刊誌の噂というレベルではなく、侍従たちの証言や日記にすら残されている事実は重要である。橋本氏によれば、先の東園侍従から聞いた同趣旨を村井長正(東宮侍従、1915-1997)からも聞いたという。
村井長正 自分が宮内庁を退いたのは昭和四十年だが、この年に山田さんもクビになった。東宮さんが一番知っている。
美智子妃殿下はご実家にお手紙をお書きになっていた。正田家といえども百年先、いや数千年先まで安泰というわけにはいかない。おふみは慎重になさらなければいけないと妃殿下に直言した。山田侍従長の諫言に妃殿下が怒った。そこまで自由を縛るのか、顔も見たくないと東宮さまにお訴え遊ばしたのではないか。東宮さまは処置を考えられたのだろう。
橋本明『美智子さまの恋文』新潮社、2007
手紙のやりとりを注意されたことに、修羅の形相で「お前、クビ!」と決断された美智子さま。逆切れ、逆上とはまさにこのかもしれない。だが山田侍従が美智子さまに諌言されたのは、はたして手紙の件だけだったのだろうか? 実は美智子さまと正田家には直通電話が引かれていたという証言がある。
美智子妃と富美子(正田富美子、美智子さまのお母さま)は思うように電話もできなかったといわれたが、婚約発表の直後、正田家に引かれた東宮仮御所との直通電話が、御成婚後は富美子の部屋に移され、その後も使われていた。
「お部屋にお茶を運んでいくと、お母さまがよく電話されていました。美智子さまとお話しされているときはすぐわかるんです。にこにこされていますから」(正田家のお手伝い)
奥野修司『天皇の憂鬱』新潮社、2019
直通電話とは交換台を通さないでダイヤルで直接相手につながる電話のことで、簡単に言えばその両者だけを繋ぐ専用の電話回線だ。まさか実母と話したいがためだけに、専用の直通回線を引かれるとは驚きだ。
あるいは、美智子さまは、山田侍従から「実家との手紙のやり取り」を注意されたので、直接に実家と連絡が取れるよう直通電話を引かれたのだろうか?
何が真相か解らないが、少なくとも山田侍従が、こういった美智子さまの普段の行いに疑問を感じていたことは確実だ。
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美智子さんもキコさんも、侍従長に対しての、横柄な態度をとっていたのですね、気の毒に正しい進言も聴くことができない、聞くことによりますと皇室に降嫁した場合親との縁を断ちと言うていました、平成になり変わ他のでね、